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長宗我部家

長宗我部元親 ちょうそかべ もとちか (1539~1599) 長宗我部家
 土佐の戦国大名。国親の嫡男。「土佐の出来人」と呼ばれた名将。若い頃は「姫若子」とあだ名されるほど軟弱で、父・国親も跡継ぎとして心配していたが、初陣で見事な槍働きをして「鬼若子」と呼ばれるようになった。初陣のわずか1ヶ月後に父が急死したため家督を継ぐ。当時、長宗我部家は土佐の一地方を支配する国人領主に過ぎなかったが、一領具足と呼ばれる精強な兵を率いて土佐を統一。その後も中央の情勢を見ながら阿波、讃岐、伊予と勢力を広げ、四国全土をほぼ統一した。しかし、羽柴秀吉による四国征伐が始まり、圧倒的な戦力差から降伏、土佐一国のみを安堵される。その後、九州征伐に参加するが、戸次川の戦いで期待していた嫡男・信親が討死したことに心を痛め、精彩を欠いていく。その様子は、溺愛していた四男・盛親に家督を継がせるため、反対する家臣は一族であろうと粛清するという有様で、長宗我部家の衰退を招いたとされる。秀吉の死の翌年から体調を崩し、関ヶ原の戦いを前に、盛親に遺言を残して亡くなった。


長宗我部兼序 ちょうそかべ かねつぐ (?~1508) 長宗我部家
 土佐七雄のひとつ・長宗我部家の当主。国親の父、元親の祖父。守護・細川政元に仕えた。智勇兼備の将で、若い頃は家臣からの信頼も厚かったという。政元、土佐一条家の後ろ盾をえて領地をよく統治していたが、次第に傲慢な態度が目立つようになり、家臣や周辺豪族たちの不満が高まったといわれる。1507年に強力な後ろ盾だった政元が暗殺されると、今までの不満が爆発して本山家を中心とする豪族たちの反撃にあい岡豊城で自害した。嫡男・国親は難を逃れ、一条房家の庇護を受けることになるが、一説には、兼序は自害せず亡命し、1611年に岡豊城返り咲いて18年に国親に家督を譲ったともいわれる。


長宗我部国親 ちょうそかべ くにちか (1504~1560) 長宗我部家
 土佐の国人領主。元親の父。幼い頃に父・兼序が本山家らに敗れて自害(亡命したとも)したため、居城・岡豊城を捨て一条房家の庇護を受けた。その後、房家の力をかりて岡豊城主に復帰して婚姻政策などで次第に勢力を拡大し、宿敵・本山茂辰長浜・戸ノ本の戦いで破って長宗我部家が土佐中央部を制圧するするきっかけをつくった。しかし、戦いの直後に急死し、家督は嫡男・元親が継いだ。元親の四国統一で活躍した一領具足の考案者ともいわれる。


長宗我部信親 ちょうそかべ のぶちか (1565~1586) 長宗我部家
 元親の嫡男。土佐統一を果たした父・元親が、織田信長と同盟した際、信長を烏帽子親として「信」の字を与えられ「信親」と名乗るようになる。智勇を兼ね備え、人望も高く、元親にも将来を嘱望されたが、九州征伐の緒戦、戸次川の戦いで討死してしまった。元親の落胆ぶりは凄まじく、以後は精彩を欠き、長宗我部家の衰退を招いたといわれる。


長宗我部盛親 ちょうそかべ もりちか (1575~1615) 長宗我部家
 元親の四男。大坂城五人衆のひとり。長兄・信親戸次川の戦いで討死すると、父・元親の強い希望もあって家督を継いだ。関ヶ原の戦いでは西軍に属して南宮山の麓に布陣したが、毛利家の先陣・吉川広家の妨害にあって戦闘に参加できないまま撤退した。戦後は、家康に謝罪して所領を安堵してもらうつもりだったが、親家康派だった兄・津野親忠を家臣・久部親直の讒言を受け入れて殺害してしまうなど判断を誤って改易となり、京都で寺子屋を開いて生計を立てたという。1614年、豊臣秀頼の求めに応じて大坂の陣に参加する。夏の陣藤堂高虎の軍勢を撃破する活躍をみせるが、大坂城は落城。無事脱出したが、潜伏していたところを発見され、京都六条河原で処刑された。


江村親俊 えむら ちかとし (?~?) 長宗我部家
 長宗我部家臣。早くから元親に仕えたという。中富川の戦いに参加し、元親の阿波平定に貢献した。羽柴秀吉四国征伐では、谷忠澄と協力して阿波一宮城を守り善戦したが、圧倒的な戦力差から降伏した。元親が秀吉に臣従し、人質として津野親忠(元親三男)が上洛した際にはその供をしている。その後は朝鮮出兵に参加し武功を挙げ1500石の知行を得た。慶長の初めに病没したと伝わる。


吉良親貞 きら ちかさだ (1541~1576) 長宗我部家
 長宗我部国親の次男。元親の弟。元親の命で土佐吉良家の養子に入り家督を継いだ。智勇兼備の良将で、元親の信頼厚く、元親に代わって総大将をつとめることも度々あった。土佐一条家との戦いでは、一条家が長宗我部家にとって大恩ある家であったため、元親は攻め込むのを躊躇するが、汚名は自分が着ると説得して実戦でも活躍、一条兼定追放後に中村城代となった。兼定が再起を図って起きた四万十川の戦いでも抜群の戦功をあげたが、まもなくして病死した。親貞の早すぎる死は元親の四国統一を5年遅らせたといわれる。


香宗我部親泰 こうそかべ ちかやす (1543~1593) 長宗我部家
 長宗我部国親の三男。元親の弟。父の命により、香宗我部家の養子に入り家督を継いだ。兄・元親に従って各地を転戦。中富川の戦いでは先陣をつとめて十河存保の撃破に大きな役割を果たした。戦もさることながら、外交でも手腕を発揮し、織田信長柴田勝家徳川家康らとの交渉役をつとめ、文武両面で元親の四国統一に多大な貢献した。羽柴秀吉による四国征伐後、文禄の役(朝鮮出兵)に赴く途中、長門で急死する。親泰死後、元親の暴走を止める者がいなくなり、長宗我部家の衰退を招いたといわれる。


谷忠澄 たに ただずみ (1534~1600) 長宗我部家
 長宗我部家臣。元は神主だったが、元親に見い出されて家臣となり、外交などで活躍した。羽柴秀吉による四国征伐の時には阿波一宮城に籠るが、降伏開城した。元親のもとへ戻ると、征伐軍との兵力差や軍装の質の差を説いて降伏を勧めるが、元親の怒りを買い切腹を言い渡される。しかし、根気よく説得を続けて最後は受け入れられ、長宗我部家は土佐一国を安堵された。その後、九州征伐に参加。元親の嫡男・信親が討死すると、島津軍を訪問して遺骸引き取りの使者もつとめた。

<元親説得の内容>
 上方勢は武具・馬具綺麗にして光り輝き、金銀ちりばめて、馬は大長にして眉上がるが如し。武者は指物・小籏を背にきりりとしていて、いかめしき体なり。ところが、それに較ぶれば、わが軍は十人のうち七人が馬に乗るといえども、その馬は上方より小柄な土佐駒で、しかも瘦せ衰えている。馬具にいたっては鞍ひん曲り、鐙は古い木のもので壊れかかり、上方勢のものとは較べようもない粗末なものだ。そのうえ鎧は色あせ、ひどく擦り切れ、ぼろぼろになっているので、麻糸で無器用に繕っている始末。
 ところが、それもいい方で、甲冑をすべて満足に身に着けているものは少なく、甲をかぶっているものには胴当てがなく、またその逆もあって、上方の美々しき武者姿とは較べようもない。そのうえ籠城しても兵糧の貯えは乏しく、とても上方勢を相手に永く戦えるわけがない。



久武親信 ひさたけ ちかのぶ (?~1579) 長宗我部家
 
長宗我部家臣。武略、知略に優れ元親の信頼が厚かった。南伊予二郡の軍代となり、その後、元親に伊予攻略の総軍代に任命されたが、岡本城攻略中に討死した。伊予攻略に望む際、元親に「自分が討死しても、跡目を弟・親直には継がせぬよう。親直はお家の障りになっても、お役にたつ者ではありません」と遺言したという。元親は親直が無能とは思わず、久武家の家督を継がせたが、親信が遺言した通り、元親の死後、親直は元親の跡を継いだ盛親のもとで専横の限りをつくし、長宗我部家衰退のきっかけを作ってしまった。


福留親政 ふくとめ ちかまさ (1511~1577) 長宗我部家

 長宗我部家臣。儀重の父。国親元親の二代にわたって仕えた。家中でも勇将として知られ、生涯で21回の感状を受け取った。元親が本山茂辰を攻めるため居城・岡豊城を留守にしたとき、その隙をついて攻めてきた安芸国虎を撃退。その活躍は「福留の荒切り」と呼ばれた。その後、元親の嫡男・信親の守役をつとめるなど活躍したが、伊予侵攻戦で討死した。


福留儀重 ふくとめ のりしげ (1549~1586) 長宗我部家
 長宗我部家臣。親政の子。名は「よししげ」とも読む。土佐の童謡に歌われるほどの勇将で、四万十川の戦いなどで活躍し、元親の四国統一に貢献した。九州征伐には元親の嫡男・信親に従って参加したが、戸次川の戦い島津家久の「釣り野伏」戦法にはまり、信親と共に討死した。元親が禁酒令を出した時、こっそり酒樽を持ち込もうとした元親を𠮟りつけたという逸話が残っている。


吉田康俊 よしだ やすとし (1565~1634) 長宗我部家
 長宗我部家臣。元親に従い中富川の戦いに参加するなど、阿波攻略戦で活躍した。四国征伐では渭山城を任されたが戦わず撤退した。九州征伐の前哨戦、戸次川の戦いでは味方が総崩れのなか元親を守り無事撤退を果たす。関ヶ原の戦い盛親と共に現地で布陣したが、結果は敗退。長宗我部家が改易されると、新たに土佐に入封した山内家に仕えたが、のち出奔した。大坂の陣では旧主・盛親に従い大坂に入るが、敗戦後は脱出し、松平忠明に仕えた。



宗家

宗義調 そう よししげ (1532~1589) 宗家

 対馬の戦国大名。宗家17代当主。李氏朝鮮の倭寇討伐に協力し、対馬を李氏朝鮮との貿易で繁栄させた。1556年に隠居するが、茂尚(18代)、義純(19代)と家督を継がせた二人の養子が立て続けに早世したため、茂尚、義純の弟・義智を20代当主の座につけ、その後見人となった。豊臣秀吉九州征伐が始まると、当主に復帰して秀吉のもとに参陣し、所領を安堵される。その後、秀吉の命により李氏朝鮮を服属させるための交渉を行うが、達成できないまま亡くなった。


宗義智 そう よしとし(1568~1615) 宗家
 対馬の戦国大名。宗家20代当主。正室は小西行長の娘。17代当主・義調の養子となって家督を継いだ二人の兄が早世したため、義調の養子となって家督を継いだ。豊臣秀吉による九州征伐が始まると、義調に当主の座を一時返上するが、義調が亡くなると、秀吉の命により義調が行っていた李氏朝鮮を服属させるための交渉を引き継いだ。しかし、交渉は決裂し文禄の役となる。文禄慶長の役では行長率いる一番隊に属して戦った。関ヶ原の戦いでは西軍に属すが、関係が悪化した朝鮮との和平を望む徳川家康によって罪は問われず所領は安堵され、朝鮮と交渉して和平を実現させた。



 

万暦帝 ばんれきてい (1563~1620)
 中国・明の14代皇帝。隆慶帝の急死を受け10歳で即位した。幼少年期は聡明で名宰相・張居正の補佐を受け、その政策により国内外の問題を次々と解決に導いた。しかし、張居正が亡くなると政務を放棄し、不当な税を徴収して酒色に溺れたため、国民の生活が困窮して各地で暴動や反乱が起こるようになる。さらに豊臣秀吉が起こした文禄慶長の役で李氏朝鮮を救うため派兵したことで財政破綻に拍車がかかり急速に国は衰えた。明は万暦帝の死後24年で滅ぶことになるが、後年「明の滅亡は、実は万暦に滅ぶ」といわるようになった。


沈惟敬 しん いけい (?~1597)

 明末の武将。豊臣秀吉が朝鮮半島へ出兵した文禄の役では李如松に従って李氏朝鮮の援軍として参加し、平壌を占領した小西行長を偽りの講和交渉で騙して平壌の奪還に貢献した。その後、李如松が碧帝館の戦いで敗北すると、今度は真の講和交渉を小西行長と行う。しかし、秀吉の講和条件があまりに無謀な内容であったため、行長と謀って秀吉、万暦帝に対して偽装工作を行い難局を乗り越えようとした。だが、結局これは露見して慶長の役を引き起こすことになる。そのため、万暦帝の怒りを買い、帰国後に逮捕され処刑された。


祖承訓 そ しょうくん (?~?)
 明末の武将。若い頃から武技を学び李如松の父・李成梁の家丁(召使い、家臣のようなもの)となった。豊臣秀吉が朝鮮半島へ出兵した文禄の役では、李如松に従って李氏朝鮮の援軍として出陣、先鋒隊を率いて平壌に籠る小西行長と戦うが惨敗した。その後、慶長の役にも参加するが、たいした武功をあげることはできなかった。


陳りん ちん りん (1543~1607)
 明末の武将。富農の家に生まれた。若い頃から軍略に興味をもち、国内の反乱鎮圧などに貢献して地位を築いた。豊臣秀吉が朝鮮半島へ再出兵した慶長の役では、明水軍の総帥として参加。秀吉の死により日本軍が撤退を始めると、海上を封鎖して順天倭城の小西行長の撤退を阻んだ。島津義弘立花宗茂が行長救援のために水軍を率いてくると、これと激戦を繰り広げ、副将である鄧子龍、李氏朝鮮水軍の総帥・李舜臣を失いながらも戦い抜いたが、日本軍の撤退をゆるしてしまった(露梁海戦)。帰国後も反乱鎮圧などで活躍したが、1607年に病没した。


董一元 とう いちげん (?~?)
 明末の武将。麻貴らと共にボハイの乱の鎮圧に貢献した。豊臣秀吉が朝鮮半島へ再出兵した慶長の役では、泗川倭城を攻めたが、島津義弘に大敗した(泗川の戦い)。


鄧子龍 とう しりゅう (1531~1598)
 明末の武将。猛将として知られ、雲南に侵攻してきたビルマのタウングー王朝との戦いなどで活躍した。豊臣秀吉が朝鮮半島へ再出兵した慶長の役では、陳りんのもと、明水軍の副将として参加した。秀吉の死により日本軍が撤退を開始すると、順天倭城の小西行長の撤退を阻み、それが元で起きた露梁海戦で戦死した。


李如松 り じょしょう (1549~1598) 
 明末の武将。字は子茂。時の皇帝・万暦帝の信頼厚い人物だったという。豊臣秀吉が朝鮮半島へ出兵した文禄の役では、李氏朝鮮の要請を受けて約4万の軍勢を率いて出陣、小西行長に占領された平壌を奪還した。平壌奪還後、勢いそのままに南下して漢城の奪還も目指すが、碧帝館の戦いで小早川隆景立花宗茂らが率いる日本軍に惨敗して戦意を喪失、講和の道を選ぶことになる。講和交渉が始まり休戦となると帰国。その後、1598年に土蛮が侵攻してくると、これを迎え撃つため出陣したが、敵の伏兵にあい戦死した。そのため、慶長の役には参加していない。李氏朝鮮の国王・宣祖慶長の役が終結すると、李如松を救国の恩人として崇めたが、李如松は自身の武勲を本国に示すために朝鮮人の首を日本人の首と偽って送るなど残忍な行為に及んでおり、韓国での人気はない。


麻貴 ま き (?~?)
 明末の武将。一族は名将をよく輩出する家柄で、麻貴も将才に恵まれ、ボハイの乱の鎮圧で活躍した。しかし、豊臣秀吉が朝鮮半島へ再出兵した慶長の役では楊鎬と共に加藤清正らが守る蔚山倭城を攻めたが敗北(第一次・蔚山城の戦い)。本国から援軍を得たのち、再び蔚山倭城を攻めたが、これも敗北し、結局、慶長の役ではたいした活躍はできなかった(第二次・蔚山城の戦い)。


楊元 よう げん (?~1598)
 明末の武将。豊臣秀吉が朝鮮半島へ出兵した文禄の役では李如松の副将として参加し、平壌奪還で武功を挙げ、つづく碧帝館の戦いでは李如松の危機を救う活躍をした。慶長の役では麻貴の指揮下で参加し、全羅道南原城の守備につくが、日本軍の猛攻に耐えきれず落城した。落城寸前に何とか脱出を果たすが、敗戦の罪を問われ処刑された。


楊鎬 よう こう (?~1629)
 明末の武将。豊臣秀吉が朝鮮半島へ再出兵した慶長の役では総司令として明軍を率いたが、第一次・蔚山城の戦いで加藤清正ら日本軍に敗北した。敗北後、本国には勝利したと報告したため解任される。1619年、明からの独立を宣言した後金(のちの清)のヌルハチを討伐するために出陣するが、サルフの戦いで敗北して投獄され、のち処刑された。


劉てい りゅう てい (1558~1619)
 明末の武将。猛将として知られ、大刀を用いたことから劉大刀と呼ばれた。ビルマのタウングー王朝との戦いで活躍した。豊臣秀吉が朝鮮半島へ出兵した文禄慶長の役に参加。慶長の役では小西行長らが守る順天倭城の攻略を担当したが、敗北した。秀吉の死によって日本軍に撤退命令が降ると、行長と和議を結んで空になった順天倭城を接収した。帰国後、明からの独立を宣言した後金(のちの清)のヌルハチを討伐するために出陣するが、サルフの戦いで戦死した。



李氏朝鮮

宣祖 せんそ(ソンジョ) (1552~1608)
 
李氏朝鮮・第14代国王。即位当初は人材を登用し治世につとめたが、やがて官人たちによる党派争い(党争)が起こり、これを収拾できずに国政が腐敗した。さらに豊臣秀吉による文禄の役では日本軍が国都・漢城に迫っていることを聞くと、民衆を置き去りにして逃亡したため民衆の怨みをかった。つづく慶長の役は秀吉の死によって日本軍が完全撤退したため、何とか国土を守ることができたが、文禄の役からつづいた戦火で国力を著しく疲弊させてしまった。


郭再祐 かく さいゆう(クアク ジエウ) (1552~1617)
 李氏朝鮮の義兵軍の将。字は季綬。裕福な地主の子として生まれる。豊臣秀吉により文禄の役が起こると、一族、村民などを集め最初の義兵軍を興した。遊撃戦を展開して安国寺恵瓊の部隊を撃退し、朝鮮半島各地に義兵軍が興るきっかけをつくり、名声と共に部隊が大きくなると第一次晋州城攻防戦に参加して日本軍撃退に貢献した。それらの功により戦後は官職を用意されたが辞退した。


元均 げん きん(ウォン ギュン) (1540~1597)
 李氏朝鮮の武将。猛将として知られ、豊臣秀吉が朝鮮半島へ出兵した文禄の役では、慶尚右道水軍の司令として全羅左道水軍の司令・李舜臣と共に日本水軍と戦った。しかし、李舜臣とは折り合いが悪く、李舜臣から「凶悪で常軌を逸した人」と酷評されている。その後、李舜臣が朝鮮南部の水軍総司令となり李舜臣の部下になってしまったため、それを嫌って陸軍に転属した。慶長の役直前、李舜臣が日本軍の再上陸を黙認ともとれる形でゆるしたことなどで失脚すると、李舜臣に代わって水軍の総司令となり慶長の役に臨むが、漆川梁海戦で藤堂高虎ら率いる日本水軍に大敗して戦死した。


権慄 けん りつ(クォン ユル) (1537~1599)
 李氏朝鮮の武将。字は彦慎。豊臣秀吉が朝鮮半島へ出兵した文禄の役では、碧帝館の戦いで明軍に勝利して勢いに乗る日本軍3万を3千の兵で幸州山城で迎え撃ち、3度にわたる激しい攻撃を退けた。その他の戦いでは文禄の役、慶長の役を通して連戦連敗を重ねたが、不屈の精神で日本軍に挑み続け日本諸将を悩ませた。慶長の役が終わった翌年1599年に職を辞して故郷に帰り、その年の7月に63歳で亡くなった。


李舜臣 り しゅんしん(イ スンシン) (1545~1598)
 韓国では救国の英雄とされる李氏朝鮮の名将。下士官として女真との国境付近を転戦していたが、幼馴染でのちに領議政(宰相にあたる役職)になった柳成龍の推挙により全羅左道水軍の司令となった。豊臣秀吉が朝鮮半島へ出兵した文禄の役では、閑山島海戦で脇坂安治率いる水軍の軍船63隻を撃沈するなど活躍した。その後、朝鮮南部の水軍を統括する総司令となるが、慶長の役の直前に命令を無視して日本軍の上陸を阻止しなかったことなどを咎められ失脚した。後任には犬猿の仲であった元均が任命され慶長の役を迎えるが、元均が漆川梁海戦で敗死すると再び総司令に任命された。秀吉の死により日本軍の撤退が決まり、小西行長の撤退を阻止しようとして起きた露梁海戦で明の水軍と共に日本軍を苦しめたが戦死した。


柳成龍 りゅう せいりゅう(リュ ソンニョン) (1542~1607)

 李氏朝鮮の政治家。学識徳業に優れ、領議政(宰相にあたる役職)をつとめた。豊臣秀吉が朝鮮半島へ出兵した文禄の役では、のちに救国の英雄と謳われる李舜臣や幸州山城の戦いで善戦した権慄を登用し、自身も明の将軍・李如松と共に日本軍に奪われた平壌の奪還に貢献するなど活躍した。しかし、その後は派閥争いに巻き込まれ失脚。1600年に宣祖によって復権の機会が訪れたが、高齢を理由に辞退して隠棲し、執筆活動に専念した。成龍が著した「懲毖録」は文禄・慶長の役の重要な史料にもなっている。